こんなイカれた本が、ちがう!ちがう!
こんなイカした本が今までにあったでしょうか?
あぁ読みにくい〜
くるくる回転させながら読んだり・・・
自分が回ってみたり・・・
手のかかる子ほどかわいいです
もぅしょうがないなぁ〜
タグ: キノコ最前線
キノコ最前線 ナミチカのきのこがり編
ポチっとしよう!
キノコ最前線 文學界12月号
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キノコ最前線 文學界11月号
キノコ最前線 rimacona編
皆様!芸術の秋、きのこの秋、音楽の秋、いかがお過ごしでしょうか?
今きのこが世の中から求められている、そして、ますますきのこ的な人たちが求められている今!きのこ的な活動をされているrimaconaさんの登場です!
そして、なんと!今日「黄昏とピアノ」のリリースされるんです!(詳細はこちらです。)
視聴もできます!こちら。
以前、飯沢耕太郎さんがきのこの魅力を、1、中間性、2、偶有性 3、多様性 4、魔術性 5、不可視性と5つに定義されていたのに倣い、rimaconaさんがどのくらいきのこ的か、5つの角度から探ってみましょう。
1、中間性
あっ!なんか懐かしい感じする、やだきれいな声なんて気も体も緩めて聞いていると、いつのまにか、こちらの世界から夢の世界に連れていかれてしまうのでrimaconaさんの曲にはご用心です。こちらの世界と夢の世界、二つの世界を行ったり来たり非常にきのこ的です。
2、偶有性
rimaconaさんはお二人とも、見た目がきのこ的でもあります、柳本奈都子さんはハナオチバタケにみたいなかわいらしさだし、原摩利彦さんはキノピオみたくキュートであられます。きのこがあっという間に姿を消してしまうことは、非常に私たちの心にその強い印象を残すようにrimaconaさんの印象は、ビジュアルと音楽と相まって強い印象を残すところも非常にきのこ的です。
3、多様性
きのこの種類が**万種ともいわれ、こんな色も、えーこんな形もって、いつも私たちを驚かせてくれるように、rimaconaさんの曲は、こうも違うのかっていうくらい、一曲一曲の印象が違っていて、ちょうど金太郎飴みたいです、どこを割ってもrimaconaさんなんだけれども、rimaconaさんでない!みたいな不思議なところも非常にきのこ的です。
4、魔術性
聞いた後決まって誰もが口ずさんでしまいます、しかも何度も何度も・・・ふふん、こうなってしまったら逆らうことなんてできません。rimaconaさんの曲には中毒性があります、あぁこの妖しい点においても非常にきのこ的です。
5、不可視性
きのこの本体は菌糸であり、ほとんどが目に見えない地下にひろがっていることも非常に私たちを惹き付ける点であります。人が持っている潜在的な魅力だとか可能性も、目には見えない菌糸のようなものだと感じています。そのきのこにはrimaconaさんに菌糸のような拡がりがくっきりと見えています、あなたにもrimaconaさんから伸びている菌糸が見えていますか?
*そのきのこの大好きな、この曲こちらも聞いてください!
キノコ最前線 シティーボーイズNo.2
不思議なもので、聖地って言葉が耳に残っていたからなんでしょうか?ふとテレビをつけたら、シティーボーイズの三人がこんなこと話されてたんです。
大竹さんが「もう、どこでも禁煙禁煙って言いやがって」って怒ってるんです、「俺たちが子供の頃はよ、大人になったら煙草が吸えるんだっていう憧れってもんがあったよ、子供と大人の間にははっきりとした区別があったんだよ、今では聖域ってもんがなくなってんだよ」ですって!ふふ〜ん、そういうことだったのかぁ〜。時代は知らず知らずのうちに、聖域を取り戻そうとしているんですね、聖なる生き物きのこを求め始めて当然なんですね。
シティーボーイズは非常にきのこ的です!こちらもご覧下さい。
キノコ最前線 文學界九月号
キノコ最前線 メルヘェンはきのこでできている!
皆様!きのこがどうしてメルヘェンに登場するのかって?
それはこういうことなんです。
なぜならメルヘェンは、植物そして菌類になぞらえてつくられたものだからなんです。
ズボリ!メルヘェンはきのこでできている!
メルヘェンにきのこが登場しているのは、メルヘェンの素がきのこなんですから、もう当然の事なんです。
ドイツ文学者の小澤俊夫さんは著書の中でこんなふうに書かれています。
植物の形式意思と同質のものがメルヘェンにもあるのです。
形式意思というものを、分かりやすく、こんな風に書かれています。
わたし自身が体験したことですが、もみの木の直立したしんを切ったことがあります。するとモミの木のあのすらっとした全体の形が損なわれてしまいました。ところが、しばらくして気づくと横枝が一本、少しずつ立ち上がっていって、とうとうまた直立したしんになってしまったのです。私は驚嘆しました。モミの木にも「自分はこういう姿でありたい」という意思があるんだ、と思い知らされました。意思というものは、動物だけがもっているものだと思い込んでいた自分が、がーんとやられた感じでした。「生きているものはすべて、自分はこういう姿でありたいという意思をもってるんだ」と、そのとき思い知らされました。これが、哲学者や美学者がいう形式意思というものだ、と実感しました。昔話は生き物ではありませんが、昔話を伝えるのは生きた人間ですから、その人間の、こういう物語にしたいという意思が、物語に生きているのだと思います。「白雪姫」でいえば、幸せな結婚で終わる物語にしたいという意思です。それは、文芸自身のもつ意思といってもいいと思います。昔話が、こういう形でありたいという意思です。
えー!!!それってメルヘェンは植物で、できてるじゃないですかって?
いえいえ!グリムが生きていたのは19世紀のことですから、きのこたち菌類は植物と同じ分類とされていました、きのこたち菌類は、しっかり植物に含まれていたということなんです。
でもね、グリム兄弟はちゃんと、きのこたち菌類が分解者(有機物を無機物に分解する)という、死から生に繋ぐ重要な役割を担っていることを知っていたのです!これ見てください。
白雪姫が生き返るシーンにきのこがいますよね?右下に!小さいこどもたちの心の中に、目立たないけれど不思議なきのこの印象は、くっきりと焼き付くんです、再生するイメージとともに。これは本当にすごいことです。幼い人の心の奥深くに再生のイメージが残るんです、メルヘェンを通して幼い人たちはかけがえのない経験をするのです。このかけがえのない経験にきのこが深く深く関わっていること、そのきのこは誇りに思います。
グリム兄弟の素敵な文章です。
よく見かけることだが、天から遣わされた嵐やその他の災害によって、麦がすべて地面になぎ倒されたときに、道端の低い生け垣や灌木のわきに、ほんのひとにぎりの地面が損なわれずに残っていて、麦の穂がぽつぽつとまっすぐに立っていることがある。そのうちにお日さまが再びやさしく照りはじめると、それらの麦はひっそりと、誰にも気づかれずに成長をつづける。大きな貯蔵庫のために早々と鎌で刈りとられることはない。だが、秋も深まって麦の粒がたっぷりと稔ると、貧しい人々の手がそれらを探しにやってくる。そして穂に穂を重ね、ていねいに束ねる。それは冬の間じゅうの食べ物になるのだ。ひょっとすると、未来への唯一の種子になるかもしれない。
その昔、栄えたたくさんのものが、もうほとんど残っていなくて、それへの思い出さえもほとんど消えてしまったのに、民衆のあいだに、歌やいくつかの本、伝説、それにこれらの無邪気な家庭のメルヘェンだけが残っているのを見ると、わたしたちはそれと同じような思いにかられるのである。ストーブのまわり、台所のかまど、屋根裏部屋へ昇る階段、まだにぎわいのある祭日、静まりかえった牧場と森、なかんずく曇りのないファンタジーが生け垣となって、それらを守り、幾世代も通して伝えてきたのである。
このね、ぽつぽつと立っている麦の穂のところを、きのこ文化と置き換えてみてください。
あぁきのこ文化って半端ない!!!でしょでしょ?
今!私たちは、ならなければいけない姿を探るのはなく、メルヘェンそしてきのこ文化を通して、こうありたいっていう姿を探っていくべきなのです!
そしてそれができるのは、きのこ文化だけなんですから。
あなたは、時代の大きな曲がり角をきのこなしで曲がることができますか?