皆様!きのこがどうしてメルヘェンに登場するのかって?
それはこういうことなんです。
なぜならメルヘェンは、植物そして菌類になぞらえてつくられたものだからなんです。
ズボリ!メルヘェンはきのこでできている!
メルヘェンにきのこが登場しているのは、メルヘェンの素がきのこなんですから、もう当然の事なんです。

ドイツ文学者の小澤俊夫さんは著書の中でこんなふうに書かれています。

植物の形式意思と同質のものがメルヘェンにもあるのです。

形式意思というものを、分かりやすく、こんな風に書かれています。

わたし自身が体験したことですが、もみの木の直立したしんを切ったことがあります。するとモミの木のあのすらっとした全体の形が損なわれてしまいました。ところが、しばらくして気づくと横枝が一本、少しずつ立ち上がっていって、とうとうまた直立したしんになってしまったのです。私は驚嘆しました。モミの木にも「自分はこういう姿でありたい」という意思があるんだ、と思い知らされました。意思というものは、動物だけがもっているものだと思い込んでいた自分が、がーんとやられた感じでした。「生きているものはすべて、自分はこういう姿でありたいという意思をもってるんだ」と、そのとき思い知らされました。これが、哲学者や美学者がいう形式意思というものだ、と実感しました。昔話は生き物ではありませんが、昔話を伝えるのは生きた人間ですから、その人間の、こういう物語にしたいという意思が、物語に生きているのだと思います。「白雪姫」でいえば、幸せな結婚で終わる物語にしたいという意思です。それは、文芸自身のもつ意思といってもいいと思います。昔話が、こういう形でありたいという意思です。

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えー!!!それってメルヘェンは植物で、できてるじゃないですかって?
いえいえ!グリムが生きていたのは19世紀のことですから、きのこたち菌類は植物と同じ分類とされていました、きのこたち菌類は、しっかり植物に含まれていたということなんです。
でもね、グリム兄弟はちゃんと、きのこたち菌類が分解者(有機物を無機物に分解する)という、死から生に繋ぐ重要な役割を担っていることを知っていたのです!これ見てください。
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白雪姫が生き返るシーンにきのこがいますよね?右下に!小さいこどもたちの心の中に、目立たないけれど不思議なきのこの印象は、くっきりと焼き付くんです、再生するイメージとともに。これは本当にすごいことです。幼い人の心の奥深くに再生のイメージが残るんです、メルヘェンを通して幼い人たちはかけがえのない経験をするのです。このかけがえのない経験にきのこが深く深く関わっていること、そのきのこは誇りに思います。

グリム兄弟の素敵な文章です。

よく見かけることだが、天から遣わされた嵐やその他の災害によって、麦がすべて地面になぎ倒されたときに、道端の低い生け垣や灌木のわきに、ほんのひとにぎりの地面が損なわれずに残っていて、麦の穂がぽつぽつとまっすぐに立っていることがある。そのうちにお日さまが再びやさしく照りはじめると、それらの麦はひっそりと、誰にも気づかれずに成長をつづける。大きな貯蔵庫のために早々と鎌で刈りとられることはない。だが、秋も深まって麦の粒がたっぷりと稔ると、貧しい人々の手がそれらを探しにやってくる。そして穂に穂を重ね、ていねいに束ねる。それは冬の間じゅうの食べ物になるのだ。ひょっとすると、未来への唯一の種子になるかもしれない。
その昔、栄えたたくさんのものが、もうほとんど残っていなくて、それへの思い出さえもほとんど消えてしまったのに、民衆のあいだに、歌やいくつかの本、伝説、それにこれらの無邪気な家庭のメルヘェンだけが残っているのを見ると、わたしたちはそれと同じような思いにかられるのである。ストーブのまわり、台所のかまど、屋根裏部屋へ昇る階段、まだにぎわいのある祭日、静まりかえった牧場と森、なかんずく曇りのないファンタジーが生け垣となって、それらを守り、幾世代も通して伝えてきたのである。

このね、ぽつぽつと立っている麦の穂のところを、きのこ文化と置き換えてみてください。
あぁきのこ文化って半端ない!!!でしょでしょ?

今!私たちは、ならなければいけない姿を探るのはなく、メルヘェンそしてきのこ文化を通して、こうありたいっていう姿を探っていくべきなのです!
そしてそれができるのは、きのこ文化だけなんですから。
あなたは、時代の大きな曲がり角をきのこなしで曲がることができますか?