キノコ最前線 鏡の国のアリス


きのこを好きになって中でも驚いたことは、きのこたち(菌類)たちが土の中で落ち葉や死骸を分解して次の生命に繋ぐ役割をしているということでした。土の中では生と死でさえあべこべの世界が土の中にあるってことは、えーえー鏡の国のアリスのあのあべこべの世界は土の中にあったんだ~!それを知ってからそのきのこにはこんな習慣ができました。
頭の中で鏡(ここポイントです想像上の鏡です。)の中に映った自分を思い浮かべるんです。
鏡の中の世界は右も左も、過去も未来も、表も裏も、全てがあべこべなので、長所は短所に、短所は長所に映ってしまうという訳なんです。フフン~悪くないじゃないですか、いやむしろ素敵じゃないですか私!フフン~短所の多い方ほどおたのしみ頂けるかと・・・

ちょっぴり開いています

" Stilbella fimetaria "

まるで扉のすきまのように、それらはいまも子ども時代にむかってちょっぴり開いています。わたしの記憶はどうしようもなく頼りなくて、日付やできごとはするすると抜けおちて、何年もあったはずの子ども時代は、ただひとつの長い夏として思いだされてしまいます。けれどもわたしは、子ども時代というあの特別な世界からたちのぼる匂いや、色あいや、口ぶりや、気分を、あの“扉のすきま“のおかげで呼びもどすことができるのです。

森のなか

行けども行けども尽きせぬ森。そんな深い森に入ったことはないが、入ってみたいなと切に思う。
 入るのは、むろん、一人でなければならぬ。森にわけいる喜びの一つは、人間くささや人間らしさから離れていくことにあるのだから。森の奥へとどこまでも入っていきたいと思うのは、その一歩一歩が人間世界とのつながりを消しさってくれるからだ。森の奥には、行ったものにしかわからぬ異界があるのだと思う。
 異界は、森閑としている。まわりにはだれもいなくて、静まりかえったなかに、わたしが一人ポツンといる。深い森にわけいった経験のないわたしだが、少年期、故郷の山をかけめぐっていて、ふと気づくと、だれもいない森閑に身を置いていた。そういう経験は何回かある。住みなれた生活空間から切り離され、親しい人びとからも切り離されて、見なれぬ木々と草むらのなかに一人いる浮遊感。自分の頼りなさに身のちぢむ思いがする一方、そこから別の世界が開けてくる、その入口に立っているような、ドキドキする感じがたしかにあった。
 高校時代に「森閑」という文字に心惹かれたのも、少年期の山中での経験がこの文字を見てあざやかによみがえったからだった。「シンカン」というおとの響きが快い。
 一本の木の形を紙の上に写したのが、漢字の「木」。その木がたくさん集まって生えている場所をあらわすのが「木」を二つ横に並べた「林」。それにもう一つ「木」を加えたのが、「森」。三つの漢字が、どれも左右対称の安定した形をなすのがうれしい。
 訓読みでは「キ」、「ハヤシ」、「モリ」。平地にすくっと一本立つのが「キ」、たくさんの木がにぎやかに立ちならぶのが、「ハヤシ」、もっとたくさんの木が陽光をさえぎって、ほのぐらい空間が奥深く広がるのが「モリ」。 
 音としても文字としても、何百回、何千回と接してきた三つの単語について、わたしのうちには右のような三つ一組のイメージができあがっている。
 森は、深く、ほのぐらい。木々はこんもりと。あるいは、鬱蒼と茂る。空気はひんやりと冷たい。湿気を帯びた地面には苔が生え、下草が群生する。わけいれば、ありのまま自然に近づき、世事は遠のく。人為に対立するものとして自然をとらえれば、森こそは自然がもっとも純粋に生きている空間だといえよう。
 自然への崇拝と畏敬の念が強かった時代に、森が神の住処と考えられたのは、思えば、当然のことだ。人事を超えた、もっと大きなものがそこにあると感じられたにちがいないのだから。一人で森のあるとき、わたしを包む森閑の世界は、わたしの小ささと森の大きさを強く印象づける。小さい自分を小さいなりに受けいれられる気がするのは、わたしを包む森の深さとゆたかさのゆえだ。その深さとゆたかさを、昔の人は神と名づけたのかもしれない。
 世事から遠い森のなかの人には、失敗も成功もない。勝利も敗北もない。自然とは、あるがままそこにあるもの、-失敗や成功、勝利や敗北とは無縁の世界なのだから。
 森のなかにわけいることは、そういう世界に還っていくことであり、自分の体と心を自然らしい自然でもって満たすこころみのように思える。

文學界やっと届きました!


文學界で連載の飯沢耕太郎さんの連載「きのこ文学の方へ」
第3回は聖なるベニテングタケです。
あ~きのこの森はますます深くますます妖しくなってきた・・・
もうマトモじゃいられない!(これパクッてます)