「昼の家、夜の家」より
キノコ 半キロギラム
バター 300グラム
タマネギ(小) 一個
スメタナ 半カップ
小麦粉 大さじ二杯
塩、胡椒、クミンタマネギをバターで炒め、塩、胡椒、クミンで下味をつける。テングタケを細かく刻み、先のタマネギに加えて、十分ほど蒸す。スメタナに溶いた小麦粉を加える。ジャガイモか、お粥に添えて食べる。
*シロタマゴテングタケは毒キノコですので食べないでくださいね。
「昼の家、夜の家」より
キノコ 半キロギラム
バター 300グラム
タマネギ(小) 一個
スメタナ 半カップ
小麦粉 大さじ二杯
塩、胡椒、クミンタマネギをバターで炒め、塩、胡椒、クミンで下味をつける。テングタケを細かく刻み、先のタマネギに加えて、十分ほど蒸す。スメタナに溶いた小麦粉を加える。ジャガイモか、お粥に添えて食べる。
*シロタマゴテングタケは毒キノコですので食べないでくださいね。
奇しくもアウシュビッツに行った日の夜はきのこスープでした。このパンに入ったきのこのスープは冬の厳しいポーランドの名物なんだそうです。アウシュビッツに行ったその夜に読もうとスーツケースに入れていた小川洋子さんの本「深き心の底より」の中のクラクフの鶏の煮込みを引用しますね、アウシュビッツに行ったその夜にこの部分を読んでコトンと眠りました。
「もの食う人びと」の中で辺見庸さんは、世界中に叫びたくなるほど美味しかった食べ物として、ポーランドの炭坑町カトウィツェの鉱員クラブで食べた、一杯のスープを挙げている。もし、あなたにとってのそれは何かと尋ねられたら、偶然だがやはり私も、同じポーランドで食べた鶏の煮込み料理と答えるだろう。 一九九四年の初夏、場所はポーランド南部の古都クラクフにある、名もないレストランだった。ちょうどサッカーのワールドカップの真っ最中で、その前に訪れたアムステルダムでもフランクフルトでも、町のあちこちに派手なポスターが貼ってあったが、クラクフにはそんな熱狂は届いていない様子だった。 私は編集者と友人の通訳の三人で、当てもなく中央市場広場のあたりをうろうろした。土産物屋には必ず琥珀か琥珀もどきの石が売られていた。聖マリア教会、織物会館、旧市庁舎など、古く美しい建物に囲まれた広場だった。くすんだ石畳に降り注ぐ光が、琥珀色に見えた。 私たちは広場からヴァヴェル城に続く小道に入り、ふっと目についたレストランで夕食を取ることに決めた。ドイツ語の達者な女主人が一人で切り盛りしている、薄暗くて小さな店だった。それがあることを自慢するかのように、コカコーラのタンクが一番目立つ場所にでんと置いてあった。 頼んだメニューを今でもはっきり憶えている。鶏の煮込みと、茹でたレタスのサラダと、粉砂糖のかかった揚げパンのようなデザートだった。 辺見さんがそのスープを世界一おいしいと感じたのは、炭坑で過酷な労働をしたあとだったからだ。私はアウシュビッツを見学したあとだった。 アウシュビッツからの帰りに食べた食事が一番だったというのは、不謹慎だろうか。その日私は、人間が為した最も残酷な行為の現場にいた。ユダヤ人から奪ったメガネの山、靴の山、髪の山を目のあたりにした。そして人間を焼くための焼却炉の前に、長い間立ちすくんでいた。それは人間が神さえも焼き殺そうとした焼却炉だった。 そんな日の夜は、食べる喜びなど味わえないくらいに打ちひしがれるのが、本当かもしれない。しかい私は違った。何の飾り気もない、ただスープで長い時間煮込んだだけの骨付き肉を、一口一口、ああなんて美味しいのだろうと、噛みしめながら食べた。 かつて味わったどんなおいしさとも異なっていた。生命の塊が、私の意志など届かない身体の奥で、熱く煮えたぎっているような、どんな力でもそれを消し去ることはできないのだと、自分で自分に証明してみせているような食欲だった。 私は骨に残ったわずかな肉さえ見逃さず、スープも一滴残らず飲み干し、デザートの皿に落ちた粉砂糖の粒まで、全部食べた。その間中、焼却炉の上を飛んでいた小鳥達たちのさえずりが、耳の底で響いていた。
ここも映画などで何度も見たことがあった鉄道引き込み線です、ただこれほどまでに大規模な収容所だとは思っていませんでした。140ヘクタールもあるそうで端はかすんでいます。この死の門があるのはアウシュビッツ第二収容所ビルケナウ収容所でアウシュビッツ第一収容所からは少し離れた所にあります。
これがアウシュビッツで撮った最後の写真です、この窓の奥がガス室と焼却炉です。無意識に生の臭いのするもの、美しいものを探してしまうのかもしれません。帰ってきてから小川洋子さんの「アンネ・フランクをたずねて」の中のこんなことを書かれていた部分に正直ドキッとしました。
前回、アウシュビッツを去るとき、これを最後にしてはいけない、という予感がありました。そこは、いちど来て満足したり、分かったつもりになったりすることをけっして許さない場所です。機会があるごとに足を運ぶべき場所であり、その機会は努力して生み出さなければなりません。何度でもおとずれ、そこが変わらずにありのままの真実として残っている姿を、繰り返し確認する必要があるのです。
映画や教科書などで何度も見たことがあった「働けば自由になる」と掲げられたゲートです。いちばん来てみたかった場所でもあり、いちばん来たくなかった場所でもありました。
アウシュビッツに連れてこられた130万人(推定)のうち生きて帰れた人は10%でしかなかったそうです。「夜と霧」であまりにも有名なヴィクトール・フランクルは強制収容所から生きて戻られた方の一人です。そしてそのきのこ大好きな「アンネの日記」のアンネもここアウシュビッツで2ヶ月ほど過ごされていたということです。
アウシュビッツ収容所はドイツ領とされたポーランドのオシフィエンチム市郊外に、1940年にドイツによって設立されました。そのためオシフィエンチム市はドイツ語のアウシュビッツという地名に変更され、それがつまり強制収容所の名にもなったのです。
どうしても来てみたかった場所というのはアウシュビッツです、オシフィエンチムの駅は本当にどこにでもありそうなかんじがしました。ここで「もうすぐアウシュビッツに着きます」と言われてもピンとこなかったです。
こちらはザモシチ旧市街ここは戦争の被害もなく美しいまま残ったそうです。
こちらはクラクフ市街です。日本でいうところの古都(奈良や京都)にあたるところだそうです。
第二次大戦中に建造物は跡形もなく破壊された街、首都ワルシャワです、戦後市民の手によって再現されたそうです、どこを撮っても絵のようです。破壊された街だと教えてもらっても信じられないほど美しく再現されているのにはただただ息を飲むばかりです。
とても印象的だったのはカラフルな団地です、社会主義時代は街は暗かったそうですが、民主化を果たしてからは次々と外壁がペイントされて街は明るくなったのだそうです。
こちらは今はホテルですがソビエトの建物だったそうです。至る所に侵略されていた過去を伺わせる建物が数多く残っています。
万物は常に流れ動いていて、人は生よりも死に近い。しかし、そんな世界を提示しながら、小説に暗さはなく、むしろ軽やかな雰囲気が漂う。それは、多様な世界や人間に対して向けられる、作家自身の優しい眼差しのためだろう。本作ではキノコが重要なモチーフになっているが、動物でも植物でもなく、死んだものの上に命を紡ぐこの菌類を、世界の曖昧さや多様性を認める、こうした寛大さのシンボルと捉えられるかもしれない。「(訳者あとがき)より」
豊かな五官と詩情をもって、歴史に翻弄された土地の記憶を幻視する。現代ポーランド文学の旗手による傑作長編
国境の町、物語る土地の記憶
この本を読んでこの物語が生まれたポーランドに行ってみたいって思ったのが理由のひとつなんです。明日は歴史に翻弄された国ポーランドについて見て頂きたいと思います。