キノコ最前線 岸本佐知子編


「きのこ文学大全」を読んでからというもの、小川洋子さんの本をよく手にするようになりました。そしたら新聞で小川洋子さんが岸本佐知子さん「気になる部分」の『ラプンツェル未遂事件』を紹介されていたんです。いてもたってもいられなくなって即注文しました。なぜなら『ラプンツェル』はそのきのこが子供の頃から大好きな特別な童話だったからです。夢中で読みました。そこでやっと気づきました。「きのこ文学大全」の「国際きのこ会館」のページを開け岸本佐知子さんの名前をドキドキしながら確認しました。「きのこ文学大全」の岸本佐知子さんは、「気になる部分」の岸本佐知子さんとなんと同じ方でいらしたのです。勘のいい方なら読む前に思いあたるのかもしれませんが、嬉しかったんです、きのこ作家さんだとは知らずに惹かれたということが、別にどっちだっていいんじゃないって思われるかもしれません。でもきのこ作家さんの作品だから惹かれるのと、惹かれた作品がきのこ作家さんの作品というのでは全然違いますからね。例えるならば、幼なじみとウルグアイでバッタリ遭遇するぐらいのありえない確率だっちゅうことです。とてもとても嬉しかったんです。

けれども、何かが気にかかっていた。心の奥に、何かこう、ひっかるものがある。私は子供の頃に読んでいた絵本「ラプンツェル」を本棚の隅からひっぱりだし、すばやくページをめくった。そこには・・・

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*一部いいえ、大部分「気になる部分」より引用させて頂きました。

*2月17日青山ブックセンターで行われる『きのこ文学名作選』刊行記念
 飯沢耕太郎×岸本佐知子 トークイベント
のこと考えたらもう嬉しくて嬉しくて。
雪で新幹線がどうぞ止まりませんように。

<Magical Mysterious Mushroom Tour〉発売記念 飯沢耕太郎・石塚真琴展 「きのこ狩りツアー」

8月21日行ってきました! めぐりさんで行われたMagical Mysterious Mushroom Tour〉発売記念
飯沢耕太郎・石塚真琴展 「きのこ狩りツアー」
「きのこマニアトークときのこ料理のゆうべ」
トーク:飯沢耕太郎さん、吹春俊光さん(千葉県立中央博物館上席研究員)、北川公子さん(きのこグッズ収集家)

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見てください!きのこ料理の数々!本当おいしかったです!
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そして吹春俊光さんのトークです。「きのこの下には死体が眠る!?」の著書でいらっしゃいます、この本ドキドキしながら読んだ時は、まさかお会いできるなんて想像もしていませんでした。

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そして奥様である北川公子さんの、めくるめくキノコグッズの数々!3000点はあるんですって!そしてなんともかっこいいのが、お部屋に飾ったりはされないんですって!

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P60に載っているクロスについてこんな風に言われていていたのが素敵でした。
「きのこは少ししか描かれていないのですが、蝶もいて、お花もいて、かたつむりもいてっていうのがいいんですね、この頃生物多様性なんてことがよく言われていますよね。」(少し違ったかもしれませんが)

そしてそして、「きのこ文学大全」でもおなじみの岸本佐知子さん(翻訳家・エッセイスト)がいらしてたのです!うわぁうわぁ!とにかくたくさんのきのこたち、いやいやきのこ好きの方々にお会いでき嬉しい1日でした。きのこ好きになってよかったぁ、全部全部きのこのおかげです!

キノコ最前線 物語ときのこの役割

きのこを好きになって、赤いきのこはなんていう名前なんだろうと、図鑑を見たら説明のところに童話に登場するきのこって書いてあったことが、ひどく印象的でした。それからどうして物語にきのこが登場するのか?なんで物語ってあるんだろう?って思い始めました。そしたら不思議なんですがきのこ文学大全で好きになった小川洋子さんの「物語の役割」という著書の中でこんなふうに書かれていたのです。

非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこですでに一つの物語を作っているわけです。 あるいは現実を記憶していく時でも、ありのままに記憶するわけで決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分のなかに積み重ねていく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実と折り合いををつけているのです。

人間にしかできない心の働き

ノンフィクション作家の柳田邦男さんの作品に、自殺なさったご次男のことを書いた「犠牲(サクリファイス)-わが息子・脳死の11日」という本があります。ご自分のご次男である洋二郎君が自殺を図って、十一日間の脳死の後に亡くなられた体験を書いたご本です。
たとえば、こんなエピソードが紹介されています。洋二郎君が高校一年生のとき、クラスの男の子のお父さんが亡くなる。先生が教室でそのことを報告するのですが、高校一年生というのは難しい年頃ですので、大部分の生徒はたいして関心を払わずにザワザワ談笑していた。洋二郎君はいたたまれなくなって、バッと立ち上がって「お父さんが亡くなったのに、みんな失礼じゃないか」と言うわけです。そうすると、誰かが「お前は、みんな仲良くだからな」と、ちょっとからかったのです。私はこれを、彼の持っている正義感、素晴らしい人間性を表しているエピソードだと思うのですが、やはり高校一年生の彼にとっては、非常に重大な体験だったようで、反撃する言葉を失って、精神的ダメージを受け、そこから少しずつ心を閉ざしていくようになります。
心優しく思いやりにあふれているが故に現代社会にはなかなか馴染めず、大学に通うのは難しいということで、通信教育を受けるようになり、日頃は家で勉強して、スクリーングの時だけ大学に行く。それだけが唯一彼と社会の接点でした。ところが、だんだん病状が進んでいき、睡眠薬を飲んでも悪い夢ばかり見る、鎮痛剤を飲んでも頭痛がおさまらない状況になってゆきます。そして、とうとう、スクーリングをやめたいという話が出ます。柳田邦男さんは、スクーリングをやめることは、洋二郎君にとって人生を放棄するに等しいほどの重大な意味を持つ、と理解していましたから、父親としてショックを受けます。結局、特効薬になるような言葉も掛けられないままでした。その晩に、息子さんが首を吊るのです。
その時、彼は二十五歳だったそうです。
脳死に陥った息子さんの病院のベッドサイドで、移植の話が出てきたとき、「どうすることが息子の考えに沿うか」とういうことを知るため、柳田さんは洋二郎君の日記を読みました。彼はときどきキリスト教の教会に通っていたらしく、そのときのことが日記に出てきます。たとえば、教会に行く電車の中で窓の外を見ているという描写があります。洋二郎君はこういうふうに書いています。
「孤独な自分を励ますかのように。『樹木』が人為的な創造物の間から『まだいるからね』と声を発するかのように、その緑の光を世界に向け発しているのを感じた」と。電車の窓越しに、ビルのあいだに生えている木が、「まだいるからね」と自分に話しかけているのを感じた、と書いてある。柳田邦男さんは、自分の息子がこんなふうに一所懸命自分を励まそうとしていた、生きようとしていたのかということを知って、たいへん苦悩されます。これを読んで、柳田さんは移植(移植といっても時代的にはまだ脳死が認められていない時期でしたので、心臓死の後の腎臓摘出)を決意しました。
ここでもやはり洋二郎さんの心と現実を結びつけたのは物語でした。樹木が、「ここにいるからね。君は一人じゃないよ。心配しなくてもいい」というふうに、声にならない声を発していて、その声なき声で自分を支えている。電車の窓に流れていくそういう緑の姿は一瞬ですが、洋二郎君にとってはそれが意味深い、一冊の本にも書き切れない物語じゃないかな、と思います。
洋二郎君は十一日間の脳死状態の後に亡くなりますが、柳田さんは腎臓を提供することに同意します。亡くなった日の夜、洋二郎君の腎臓は航空自衛隊の入間基地から九州へ、ジェット機で運ばれていきます。柳田さんご自身は、そのジェット機が飛んでゆく姿を見たわけではありません。しかし柳田さんは、夜空に飛行機が飛び立って星のなかを自分の息子の命が運ばれていく、という場面を思い描いたのです。「ああ、洋二郎の生命は間違いなく引き継がれたのだと実感した」とお書きになっていらっしゃいます。 これもフィクションです。現実の洋二郎君は死んだけれども、事実を受け入れるために、「引き継がれた命が星のなかを運ばれていく」というフィクションを、柳田さんが自分のなかで組み立てなおしているわけです。

私は、これはたいへんに人間らしい、人間にしかできない心の動きではないかと思うのです。死を生として受け入れるのですから、正反対のことをしているわけです。そのように途方もない働きを見せる人間の心とは、何と深遠なものであろうかと、思わずにはいられません。

きのこ(菌類)のなにが好きって、土の中で植物や動物の死を分解して生に繋げる役割を持っていることです。

生命だとか、おもいだとか、繋がり(縁のようなもの)だとかは、普段の生活の中では確認しにくいモノたちだけど

きのこは確かに繋がっている、継がれてゆく、巡ってゆくって感じさせてくれる不可思議な生き物です。

誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実と折り合いををつけているのです。

そして、こうともいえると思います。

誰でも生きている限りはきのこを必要としており、きのこに助けられながら、どうにか現実と折り合いををつけているのです。

そして再び、きのこ文化はきのこを好きな人のためだけにあるのではなく、すべての人のためにあるものだと考えています。

今、物語が求められていることは、よく耳にするのですが、きのこが求められていることをもっともっと知ってもらわなくてはなりません。

キノコ最前線 マリー編(くるみわり人形より)

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今日はくるみわり人形よりマリーちゃんの登場です。マリーちゃんは洋服ダンスのコートの袖から不思議な世界に入っていってしまいます。キノコ病の私たちは不思議な世界への憧れが強めの人種であるといえます。キノコ好きの皆様そのきのこは知っています、はじめてフェアリーリングを見たときあなたの中の琴線いいえ菌線が震えてしまったでしょう?菌類の子孫なんですから当然のことです。それにフェアリーリングは不思議の世界の入り口なんですから!マリーちゃんとキノコ病の私たちに共通すること、それは日常と非日常の扉の常識という名のネジがゆるんでいるという点です、そのため日常と非日常を自由に行き来してしまい、つかみどころのない印象、または周囲から浮いたようなチグハグな印象を与えてしまいがちです。
そんな私たちの必須アイテムそれがきのこです。現実といわれる日常の中で違和感やズレを感じる人であればあるほど不思議の世界で自由にはばたけます。違和感やズレはアリスみたくキノコを齧って調節すればいいんです、そうです!とびまわることも、小さな穴を通りぬけることだって!できるんです!きのこさえあれば・・・・・・そうきのこさえあれば・・・
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くるみわり人形といえばチャイコフスキーです、この方もきのこと大変に深い関係があります、続きはきのこ文学大全の中のチャイコフスキーとレーニンをお読み頂ければよろしいかと・・・

キノコ最前線 今日の毎日新聞の一面に

「うつくしやあらうつくしや毒きのこ」。信州出身の俳人・小林一茶が毒キノコのあやしい美をいくつも詠んでいたのを飯沢耕太郎さんの「きのこ文学大全」(平凡社出版)で教わった。「人をとる茸はたしてうつくしき」「化されな茸も紅を付て出た」
くれぐれも化かされぬよう用心の要るキノコ狩りだが、少し前に関西の山林でカエンタケという毒キノコが急増中というニュースを見かけた。火災を思わせる真っ赤な棒状のキノコで、枯木の根元などに生育するが、その猛毒ぶりがすごい。
3グラムも食べれば死ぬといわれ、専門家によると全身真っ赤になる炎症を起こす。触れただけで皮膚がただれる。見るからに毒々しいが、食用のベニギナタタケと間違えられたことがあった。新潟県や山形県などで中毒例があり死者も出た。
専門家が注目するのはカエンタケの発見例がミズナラやコナラが集団枯死する「ナラ枯れ」の発生地域に多いことだ。米粒ほどの甲虫が伝播する病原菌で起こるこのナラ枯れ、本州日本海側から各地へ急拡大する防除困難な森林被害である。
この話で頭に浮かぶのは宮崎駿監督のアニメ「風の谷のナウシカ」で有毒の瘴気を出す菌類と怪虫の森「腐海」だ。腐海は文明に汚染された土地に生じた人間を拒む生態系である。が、それは実は土地の毒を浄化する役を果たしていたのだ。
ナラ枯れ拡大の原因のひとつは人が薪炭を利用しなくなり、森の老木を放置するようになったからという。また温暖化の影響だという見方もある。文明のもたらす枯死の後に生える毒キノコは人に何を語りかけるのか。「天狗茸立けり魔所の入口に」。これも一茶だ。

そのきのこも一句詠んでみました。

きのこの輪ふと誘われし魔所の中

キノコ最前線 飯沢耕太郎編

私たちキノコ病の愛読書「世界のキノコ切手」「きのこ文学大全」の著者である飯沢耕太郎さんの登場です。

そのきのこが申すまでもなく、この2冊のきのこ本は、数多くの文化系の潜在的なきのこ好きを発病させてしまった名著であります。そのきのこも切手の中のかわいいきのこたちに誘われるようにきのこの森に入りました。きのこの森は例えようもないくらい素敵で奇妙でおもしろくて・・・・・・これについてはまたの機会にします。

さて、きのこが生物界における分解者だとういう点に魅せられる方は多いのではないでしょうか?飯沢さんはきのこ文学大全の中でこのように書かれています。

「人文系のきのこ図書がまったくないことに大きな不満を抱いていた。後で詳しく見るように、きのこイメージは文学作品の中で見すごすことのできないユニークな場所を占めている。残念なことに、それらをきちんと調べたりまとめたりする試みも、ほとんどおこなわれてこなかったようだ。誰もやっていないなら、自分の手でやるしかないのではないかというのが、本書執筆の最大の動機である。」

えー!えー!これってきのこが土の中で行っている分解と同じことです!分解って落ち葉や死骸を無機物にして次の生命に繋げることです、落ち葉や死骸を不満に置き換えてみてください、新しい生命それがこの2冊の名著って考えてみると飯沢さんは分解者という訳なんです。今の私たちが今一番欲しいものそれは「分解する力」ではないでしょうか?

誰もが言いようのない不満や不安や憤りを感じながら生きているけれど、それらの不満や憤りを栄養に、自らが置かれた状況を分解する(変換する)、周りの状況を生きやすいものに変えてしまう、更には楽しいものにまでにつくり変えてしまえたら、これほど素敵なことってないって思います。文学や切手の中のきのこたち、そしてキノコ病の先人たちは、私たちを楽しませてくれるばかりか、私たちが一番欲しい「分解する力」を貸してくれるような気がしてなりません。文化の世界きのこの世界を分かりやすいかたちで繋いで下さった飯沢耕太郎さんに感謝を込めて。