「物語の役割」タグアーカイブ

物語を獲得するまでの苦悩

さて、これまで挙げてきたのは、苦しい現実を乗り越えるための物語という視点でしたが、少し見方を変えて、自分で作り上げた物語を悲しむ、ということについて考えてみたいと思います。
 同じくホロコースト文学から例を取りますと、ウィーン生まれのユダヤ人文学者ルート・クリューガーは、自らの収容所体験を描いた自伝『生きつづけるーホロコーストの記憶を問う』の中で、生き残った事実を心の闇として抱えている、その苦しみを告白しています。
 彼女は一九四四年五月、十二歳の時、母親と一緒にアウシュビッツへ移送されます。最初の選別の時、労働力にならない子供はすぐ殺されるため、歳を聞かれたら十五と答えるように母親から言い含められ、その通りにしてガス室送りを免れます。やがて冬が来て。ドイツの敗色が濃くなると、収容者たちはアウシュビッツから徒歩でドイツの収容所へと移動させられます。行進の最中、彼女と母親は監視の目を盗んで脱走。キリスト教の牧師さんに助けられ、偽の身分証明書を作ってもらい、ドイツ人難民に紛れてドイツへ向かいます。その途中、ユダヤ人の行進に出会います。
 それはついこの間まで苦悩をともにしていた人々の行進です。本当ならその中にいるべきなのに、自分は嘘をついてそこから抜け出した。命を守るために嘘をついてしまった。十二歳なのに、生きてきた年数の丸々四分の一を足して十五だと言った。偽の身分証明書でドイツ人に成りすました。自分たちはあの人たちを裏切ったのだ・・・・・。ルートリューガーは助かった喜びに浸るどころか、自分の嘘に苦しみます。
 十二歳の子供にとって、十五と歳を偽るのは途方もなく大きなごまかしだったのでしょうか。しかし、その一言のおかげで、彼女はガス室に送られずに済んだのです。偽の身分証明書にしても、何ら彼女に罪はありません。彼女は被害者であり、責められるべき人は他にちゃんと存在しているはずです。そして恐らく彼女も、理屈ではそう理解しているのでしょうが、心はなぜか、被害者が罪悪感を持つという複雑な様相を呈するのです。
 生き残った者としての”罪”というより、”借り”の意識。だれに借りているか分からないが、何か独特な形で、借りをしているような気分。加害者から取って死者にあげたいが、どうやったらいいのか分からない。死者は敬われる。生者はむしろ疎まれる・・・・・。と彼女は表現しています。
 ここで私はヴィクトール・フランクル『夜と霧』のあまりにも有名な一節を思い起こします。
 「最もよき人々は帰ってこなかった」
 私には彼らが、現実を無理矢理、受け入れがたい形に物語化しているように見えます。なぜわざわざ、自分が苦しむ形で現実をとらえようとするのか、考えれば考えるほど不可思議です。
 しかしこの複雑さもまた、先に述べた心の深遠さを証明していると言えるでしょう。自分は生き残って幸運だったと単純に喜べず、むしろ、どうして自分は生き残ったんだろう。という疑問に突き当たる。あの人もこの人も皆殺されたのに、自分がこうして生きているのは何故なんだ、と答えの出ない問いに自らを投げ掛け続ける。こうした心の動きは、人間の良心とつながっているように見えます。クリューガーやフランクルの抱える苦悩は、決して当たり前のことではない。自分とは、さまざまな犠牲の上に成り立つ、ほとんど奇跡と呼んでいい存在なのだ、という良心に基づいた物語を獲得するための苦悩なのではないでしょうか。(小川洋子著 物語の役割より)

在り間

Mushroom growing high from a tree

物語とはまさに、普通の意味では存在し得ないもの、人と人、人と物、場所と場所、時間と時間等々の間に隠れて、普段は見過ごされているものを表出される器ではないでしょうか。あいまいであることを許し、むしろ尊び、そこにこそ真実を見出そうとする。それが物語です。

キノコ最前線 物語ときのこの役割

きのこを好きになって、赤いきのこはなんていう名前なんだろうと、図鑑を見たら説明のところに童話に登場するきのこって書いてあったことが、ひどく印象的でした。それからどうして物語にきのこが登場するのか?なんで物語ってあるんだろう?って思い始めました。そしたら不思議なんですがきのこ文学大全で好きになった小川洋子さんの「物語の役割」という著書の中でこんなふうに書かれていたのです。

非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこですでに一つの物語を作っているわけです。 あるいは現実を記憶していく時でも、ありのままに記憶するわけで決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分のなかに積み重ねていく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実と折り合いををつけているのです。

人間にしかできない心の働き

ノンフィクション作家の柳田邦男さんの作品に、自殺なさったご次男のことを書いた「犠牲(サクリファイス)-わが息子・脳死の11日」という本があります。ご自分のご次男である洋二郎君が自殺を図って、十一日間の脳死の後に亡くなられた体験を書いたご本です。
たとえば、こんなエピソードが紹介されています。洋二郎君が高校一年生のとき、クラスの男の子のお父さんが亡くなる。先生が教室でそのことを報告するのですが、高校一年生というのは難しい年頃ですので、大部分の生徒はたいして関心を払わずにザワザワ談笑していた。洋二郎君はいたたまれなくなって、バッと立ち上がって「お父さんが亡くなったのに、みんな失礼じゃないか」と言うわけです。そうすると、誰かが「お前は、みんな仲良くだからな」と、ちょっとからかったのです。私はこれを、彼の持っている正義感、素晴らしい人間性を表しているエピソードだと思うのですが、やはり高校一年生の彼にとっては、非常に重大な体験だったようで、反撃する言葉を失って、精神的ダメージを受け、そこから少しずつ心を閉ざしていくようになります。
心優しく思いやりにあふれているが故に現代社会にはなかなか馴染めず、大学に通うのは難しいということで、通信教育を受けるようになり、日頃は家で勉強して、スクリーングの時だけ大学に行く。それだけが唯一彼と社会の接点でした。ところが、だんだん病状が進んでいき、睡眠薬を飲んでも悪い夢ばかり見る、鎮痛剤を飲んでも頭痛がおさまらない状況になってゆきます。そして、とうとう、スクーリングをやめたいという話が出ます。柳田邦男さんは、スクーリングをやめることは、洋二郎君にとって人生を放棄するに等しいほどの重大な意味を持つ、と理解していましたから、父親としてショックを受けます。結局、特効薬になるような言葉も掛けられないままでした。その晩に、息子さんが首を吊るのです。
その時、彼は二十五歳だったそうです。
脳死に陥った息子さんの病院のベッドサイドで、移植の話が出てきたとき、「どうすることが息子の考えに沿うか」とういうことを知るため、柳田さんは洋二郎君の日記を読みました。彼はときどきキリスト教の教会に通っていたらしく、そのときのことが日記に出てきます。たとえば、教会に行く電車の中で窓の外を見ているという描写があります。洋二郎君はこういうふうに書いています。
「孤独な自分を励ますかのように。『樹木』が人為的な創造物の間から『まだいるからね』と声を発するかのように、その緑の光を世界に向け発しているのを感じた」と。電車の窓越しに、ビルのあいだに生えている木が、「まだいるからね」と自分に話しかけているのを感じた、と書いてある。柳田邦男さんは、自分の息子がこんなふうに一所懸命自分を励まそうとしていた、生きようとしていたのかということを知って、たいへん苦悩されます。これを読んで、柳田さんは移植(移植といっても時代的にはまだ脳死が認められていない時期でしたので、心臓死の後の腎臓摘出)を決意しました。
ここでもやはり洋二郎さんの心と現実を結びつけたのは物語でした。樹木が、「ここにいるからね。君は一人じゃないよ。心配しなくてもいい」というふうに、声にならない声を発していて、その声なき声で自分を支えている。電車の窓に流れていくそういう緑の姿は一瞬ですが、洋二郎君にとってはそれが意味深い、一冊の本にも書き切れない物語じゃないかな、と思います。
洋二郎君は十一日間の脳死状態の後に亡くなりますが、柳田さんは腎臓を提供することに同意します。亡くなった日の夜、洋二郎君の腎臓は航空自衛隊の入間基地から九州へ、ジェット機で運ばれていきます。柳田さんご自身は、そのジェット機が飛んでゆく姿を見たわけではありません。しかし柳田さんは、夜空に飛行機が飛び立って星のなかを自分の息子の命が運ばれていく、という場面を思い描いたのです。「ああ、洋二郎の生命は間違いなく引き継がれたのだと実感した」とお書きになっていらっしゃいます。 これもフィクションです。現実の洋二郎君は死んだけれども、事実を受け入れるために、「引き継がれた命が星のなかを運ばれていく」というフィクションを、柳田さんが自分のなかで組み立てなおしているわけです。

私は、これはたいへんに人間らしい、人間にしかできない心の動きではないかと思うのです。死を生として受け入れるのですから、正反対のことをしているわけです。そのように途方もない働きを見せる人間の心とは、何と深遠なものであろうかと、思わずにはいられません。

きのこ(菌類)のなにが好きって、土の中で植物や動物の死を分解して生に繋げる役割を持っていることです。

生命だとか、おもいだとか、繋がり(縁のようなもの)だとかは、普段の生活の中では確認しにくいモノたちだけど

きのこは確かに繋がっている、継がれてゆく、巡ってゆくって感じさせてくれる不可思議な生き物です。

誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実と折り合いををつけているのです。

そして、こうともいえると思います。

誰でも生きている限りはきのこを必要としており、きのこに助けられながら、どうにか現実と折り合いををつけているのです。

そして再び、きのこ文化はきのこを好きな人のためだけにあるのではなく、すべての人のためにあるものだと考えています。

今、物語が求められていることは、よく耳にするのですが、きのこが求められていることをもっともっと知ってもらわなくてはなりません。