再び!Twitter はじめました

Twitter をすすめてもらうまま始めましたが、Twitter ってなに?っていまいちよく分からなかったんですが、そのきのこてぬぐいを買って頂いたカウンセリングルームプリメイラの袰岩さんのブログの中でTwitter ってなに?ってことをこんなに素敵に表現されておられるので引用させて頂きます。

時間で輪切りにしているような、そんな感じ。
隣りの数階建てのビルの窓がいくつか見えることってあるじゃない。
それで、上の階の人と下の階の人って、
お互いは見えないんだけれど、隣りのビルにいる私からは
上のビルの人がぼ~っと外を眺めていて、下のビルの人は
せっせと電話に応対しているのが見えてるっていう、
そんな感じ

Twitter はじめてみよっかなぁって思ってしまいますよね?ね?ってことで再び

sonokinoko twitter
※そしてなんとそのきのこてぬぐいの紹介もして頂いてます、ありがとうございます。なんと!田口ランディさんにそのきのこてぬぐいをお土産にしていただいたようなのです、なんと!なんと!田口ランディさんはきのこのすごいエピソードをお持ちなのです、明日は田口ランディさんの登場です!
すごいですほんと!

「裏返し」の流儀

Toadstool
裏返しってことでこんな流儀があるのですって!
茂木健一郎さんの今日のブログより。

お風呂の話をしたいたら、となりにいた佐々木厚さんが、「茂木さんはねえ、旅行で、朝、下着がないことに気付くと、その場で洗うんですよ」と暴露した。「そうして、しぼって、濡れたまま履いてしまうんですよ。」

実際そうである。ぼくは、下着にせよ、靴下にせよ、前の日に着たのをそのまま履くよりは、せっけんでごしごし洗ってしまって、しぼって、そのまま履いてしまうことを好む。

ズボンや靴が少々濡れるが、歩き回っているうちにかわいてくる。そういうと人に驚かれるが、そっちの方が気持ちがいいのである。

そうしたら、白洲信哉の目が光った。

「なんでそんなことするんですか?」と信哉が言う。

「次の朝、履く下着がなかったら、裏返せばいいじゃないですか?」

「ん?!」

ぼくは、相手から思いもかけない言葉がでてきて、絶句した。

「裏返すって・・・それじゃあ、今度は表がキタナイじゃないか。それが、ズボンにとかに移ったりするじゃないか。」

「普通に履いていれば、そんなに汚くないですよ。」

どうも、白洲信哉は、「昨日おふろに入ったから、今日はおふろに入る日じゃない」と言ったり、自分のからだが基本的にきれいなもんだと思っている節がある。

「そうか、裏返すのか。それじゃあ、また次の日下着がなかったら、どうするの?」

「そんなもん、簡単ですよ。また裏返して履けばいいんじゃないですか。」

「でも、そうすると、もとに戻っちゃうよね。」

信哉は黙っている。

私はおかしくなってしまった。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」で、帽子屋がお茶会をしていて、「汚れたらどうするんだ」とアリスが聞いて、「隣りの席に移る」と帽子屋が言い、「それじゃあ、一周して元の席に戻ったらどうするのか?」とアリスが聞くと、帽子屋が「話題を変えようか」とごまかす。

あのユーモアある会話を思い出した。
 
そういえば、白洲信哉は、アリスが探検する「不思議の国」にいてもおかしくない雰囲気を漂わせているゾ。

ぼくはどうしても確認したくなって、改めて聞いた。

「靴下も同じ?」

「当たり前じゃないですか。裏返して履けばいんですよ。」

うーん。論理明快。しかし、なんだかヘンダ。

白洲信哉の「裏返し」の流儀。

世界は深い。私たちが思っているよりも、ずっとずっと深い。

ふふん~こういうのキノコ的!
裏の裏はただの表だったりして~♪こんなのあったような?

森へ

Roridomyces roridus

読む人の眼は
うごめく文字の森に分け入って行く
読む人の耳は
ページに降るひそやかな雨音を聞く
読む人の口は
なかば開かれ言葉を失い
読む人の指は
気づかずに主人公の腕をつかんでいる
読む人の足は
帰ろうとして物語の迷路に迷い
読む人の心はいつしか見えない地平を越える

キノコ最前線 もしも歴史が

妖精たちがおりなすこのシーンは、シェイクスピア劇のなかでも、有名な場面の一つ。キャロルはこのように細部まで書きこまれた絵が好きだった。

その絵というのがジョゼフ・ノエル・ペイトン卿の『真夏の夜の夢』という作品です。
kinoko20100329 004
見えにくいのですが、右の真ん中あたりにきのこがいるの見えますか?
もしもキャロルがこの絵に出逢ってなかったら不思議の国のアリスは生まれなかったかもしれないし、きのこがいなかったらこの絵だって生まれなかったかもしれないしって考えていたところ・・・
偶然なる一致、内田樹さんが『邪悪ものの鎮め方』でこんな風に書かれていたんです。

「歴史に『もしも』はない」というのはよく口にされる言葉です。たしかに、「起きなかったこと」は起きなかったことですから、「起きなかったこと」なんか考えてもしかたがないのかも知れません。 でも、どうして「あること」が起きて、「そうではないこと」は起きなかったのか。その理由について考えるのはなかなかたいせつな知性の訓練ではないかと私は思っています。 どうしてかというと、過去の「(起こってもよかったのに)起こらなかったこと」について想像するときに使う脳の部位は、未来の「起こるかもしれないこと」を想像するときに使う部位とたぶん同じ場所のような気がするからです(解剖学的にはどうかは知りませんけど)。
中略
未来はつねに未決定です。今、この瞬間も未解決なままです。一人の人間の、なにげない行為が巨大な変動のきっかけとなり、それによって民族や大陸の運命さえも変わってしまう。そういことがあります。歴史はそう教えています。誰がその人なのか、どうのような行為がその行為なのか。それは私たちにはわかりません。ということは、その誰かは「私」かもしれないし、「あなた」かもしれないよということです。
中略
それよりはむしろ、一人の人間が世界の運行にどれくらい関与することができるのかについて考えることです。 私たちひとりひとりの、ごくささいな選択が、実は重大な社会的変化を引き起こす引き金となり、未来の社会のありかたに決定的な影響を及ぼすかもしれない、その影響について深く考えることです。もしかするとほかならぬこの自分が起点になって歴史は誰も予測できなかったような劇的な転換を遂げるかもしれない。

キノコが世界を劇的に変えてしまう、おおいにありえる話です!
そしてキノコがこの世に存在しない世界について考えてみることは
きのこ好きの私たちにとってキノコを一層大切なものにしてくれるのでは
ないでしょうか?