それは今をさかのぼること16年前、その年日本中を何年か振りの猛暑が襲っていた。私の営む喫茶店は、寺院や墓地などが点在する坂の多い街にあり、高台からは高層ビルの見える位置にありながら、ゆっくりとした時間の流れる閑静な住宅街にあった。夏の終わりの夕方、一人の女性客が入ってきた。誰も客がいないのをいいことに、私の趣味であるジャズをいつもより少し音量を上げていたのを思い出し音量を下げた。女性客はよりによって一番西日の射す背もたれのない椅子に座りアイスコーヒーを注文した。長年このような仕事をしていると人の特徴を覚えるのが得意になってきたりもするが、その日は古くからの友人に頼まれていた仕事におわれ寝不足が続いていていたこともあり、今となってはその女性客と私の最初の出会いは印象の薄いものでしかない。その女性客と初めて出逢った日、それは同時に私ときのこ病患者の初めての出遭いの日でもあり、そしてまちがいなく私の中の奇妙な扉が開いてしまった日でもある。その女性客の名はそのきのこという。(つづく)